ヴィパッサナー瞑想は、10日間(正確には12日間)の合宿である。
千葉と京都に大きな施設がある。
私は千葉に行った。
快晴の秋空のもと、徹底的に俗世間から隔離された千葉の山奥にこもり、本来まったく関係のない世界で生きている人たちが一カ所に集められて10日間朝から晩までひたすら瞑想をする。
現地には面白い人がたくさんいた。
プロのビリヤード選手、けん玉の大道芸人、キャバクラのオーナー、体を触らない整体師、アダルトサイトの管理者、食品卸の社長、大学生、外国人、80歳近くのご老人、フリーライター(私)などなど。バラエティーに富んだ経歴を持つこの連中である。
奇妙で充実した体験だった。そして、ふりかえってみると人生の分岐点だった気がする。
この瞑想コースは、1日のうち10時間を瞑想して過ごす。それを10日間続けるからトータル100時間。
現代人にはあり得ない時間の使い方であり、見方によっては贅沢な時間の使い方でもある。
電子機器と貴重品と紙とペンはコースの始めに没収されるから、ネットは使えないし記録することもできない。
他人との会話・接触禁止・目を合わせるのもNG。娯楽は散歩か青空を眺めるだけ。時間の流れがこれほどまでに遅く感じたのは初めてだ。
刑務所に入ったことはないが、結構こんな雰囲気なのではないかもしれない。
連絡手段を断たれ、貴重品を奪われ、逃げ出すことを禁じられる。
現代人にとっては不自由ではあるが、豊かな自然に囲まれて、静かな時間がゆったりと流れ、ひたすらぼんやりできる空間。
ここで瞑想すれば自分と向き合わざるを得ない。
忙しい現代人はこういう時間を持つことが重要なのだと思う。
苦痛と絶望にまみれたハンパない修行の場
瞑想合宿には気楽な気持ちで参加した。
しかし、現実は厳しかった。
完全なる修行であり、苦痛と絶望にまみれた日々を過ごすことになった。
「これから正しい修行をしていきましょう」と指導者ははっきりと言った。
これが修行だったことにそのとき初めて気が付いた。
やっている最中は気楽に参加してしまったことに泣きながら後悔した(本当に泣いた)慣れない座り方をして足と腰が痛すぎる。
しかも4日目からは一切動いてはならないという指令が下り、もうだめだという気持ちになった。
とはいえ不思議なもので、終わってみれば有意義で濃厚な体験だった。
もう一度参加したいとすら思う。
参加者の1/3はリピーターということからも瞑想体験は常習性がある。
瞑想は人生を根本から変える。
根拠はないが絶対の自信がある。
これまでは波乱万丈ではちゃめちゃで地べたを這うような人生を送ってきたがこれからは違う。
穏やかで満たされた生活を送ることになる。
瞑想にはその力がある。
2500年も続いてきたのは伊達じゃない。
私は瞑想をライフワークにすることにした。俗世間に戻ってから半年が経つが毎日朝晩30分ずつ座っている。
参加した理由
そもそもヴィパッサナー瞑想に参加しようと思った理由がいくつかある。
興味1:瞑想者は何をやっているのか知りたかった
静かに座り、目を閉じることで、彼らは何をしているのか昔からずっと興味があった。
「無」になろうとしているのか?
無になることでどうなるかを体験してみたかった。
興味2:幻覚が見たい
幽霊を見る・巨大なゴキブリを見るなど、変なものを見るのがヴィパッサナー瞑想だと聞いていた。
毎晩の夢を見るのを楽しみにしているので、さらに幻覚を見れたらものすごく楽しい人生になるのではないかと思った。
興味3:宇宙とつながりたい
瞑想をすると宇宙とつながれるのではないかという漠然としたイメージがあった。
子どもの頃、いつも宇宙人みたいな存在と会話していた。
それが宇宙とつながった状態だったのではないかと思う。
中学生になり、自我に目覚めるにしたがって宇宙人の存在はうすくなり、会話することもなくなっていった。
今から思うと、すべて浅はかなことだったと反省している。
実際に得たこと
瞑想合宿から帰ってきて、行く前と後とではちょっとした変化があった。
▼流れに乗れるようになった
今まで自己啓発セミナーや成功者の講演会に行くと「肩の力を抜いて流れに身を任せてください」というようなことをたびたび言われ続けてきたのだが、その「流れ」が何なのか分からなかった。
どこにある流れなのか、身を任せるとはどうすれば良いのか理解できないでいた。
しかし、今回の瞑想を受けて帰宅してから、いつもと違っている感覚があることに気付いた。
ふと思ったことが現実になるのである。
例えばレストランで、「パンのおかわりが欲しいな」と思ったら背後から「パンのおかわりはいかがですか?」と店員さんから声をかけていただいたり、「今月はもう少し売上が欲しいな」と思ったら仕事のオファーが立て続けに来たりと、度を超えたシンクロニシティが続いている。
特に気合いを入れて念じたりしたわけではなく、なんとなくこうだったらいいなという軽いノリで思ったことがスッと現実になる感じである。
▼「何が起こっても絶対大丈夫」と思えるようになった
瞑想から帰還した翌日から仕事上でトラブルに見舞われて揉みくちゃにされたのだが、自分でも驚くほど冷静でいられた。
うまくいこうがいくまいがどちらでもよい、といった達観した物の見方をしている自分がいることに気付いた。
ヴィパッサナー瞑想の教えのひとつに「アニッチャ」という言葉がある。
「すべては無常」という意味である。
瞑想中にどんなに腰や足が痛くても次第に消えていく無常のことなのだから、とらわれることなく平静な心でいなさい、ということ。
そんな話を10日間のコース中ずっと聞かされていたせいか、何があっても平静な心でいればいずれはまた元の静かな状態に戻ると開き直れた。
自分にとっては結構な変化なのだが、ヴィパッサナー瞑想をする目的はそれどころではなく、もっとはるか壮大なことである。
瞑想の目的は「解脱」
今回参加したヴィパッサナー瞑想は、釈迦(仏陀)が悟りを開いた世界最古の瞑想法である。
ヴィパッサナー (Vipassana) は、物事をありのままに見る、という意味です。インドの最も古い瞑想法のひとつで、2500 年以上前にゴーダマ・ブッダによって再発見され、普遍的な問題を解決する普遍的な治療法、 生きる技として、多くの人に伝えられました。 宗教とはかかわりをもたないこの技は、あらゆる心の汚濁を取り除き、解脱という究極の幸福を目指しています。
解脱することを目的にしている瞑想なのだが、参加者は解脱を求めてきているとは到底思えないひと癖ある連中だった。
なぜ、そんな人たちが集まってくるかというと、12日間を要するため時間に余裕のある人しか参加できないからだ。
サラリーマンでは年間の有給休暇を寄せて集めても参加は厳しい。
その上、そんなに時間をかけて瞑想しようと思う人材となると、かなりの変わり者かその道を究めようとする人しか来ないことになる。
そして、参加費が無料ということもあり、学生やニートの若者も多い。
海外からの参加者も多い。男女合わせて60名のうち、10名程度は外国人だった。本当にいろいろな人たちがいるのである。
私自身、「解脱」(げだつ)を「解説」(かいせつ)と読み違えるほど解脱には縁のない人生を歩んできた。
今回の瞑想も面白半分で受けて痛い目に遭った。
ヴィパッサナー瞑想は全世界中で現在も普及活動が行われている。
今回私が参加したのは、「日本ヴィパッサナー協会」という団体で、150カ所に施設を持つ大きな組織の日本にある施設である。
この組織は、S.N. ゴエンカ氏というインドの家系を持つミャンマー人を創始者とする。
彼の声を録音した内容をベースに10日間瞑想は進められる。低音だが伸びのあるなかなか良い声をしている。
そもそもは、ゴエンカ氏とヴィパッサナー瞑想を紹介した本を2013年ごろに人づてに教えてもらって読んだときにこの瞑想の存在を知った。
ゴエンカ氏が亡くなる直前だったと思う。
そのときは自分とは遠くて関係のない存在だと思っていた。
しかし、年を経るごとにだんだんと見えない世界に興味を持ち始め、今までの生き方に疑問を持ち、「なんとなく違う」という想いで参加を決めたのである。
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